ブラックマーケット調査

美術とマフィア、犯罪学など

美術探偵が追ったゴッホの絵 ゴッホ『春のヌエネンの牧師館の庭』盗難事件


画像引用:Singer Laren公式

2022年7月20日ゴッホを盗難した実行犯として男性が禁固8年を言い渡されました。これはこの種の罪における最高刑です。

盗まれた絵は今も帰らないままですが、探偵や他の事件の裁判からいくらかの情報が得られています。はたしてゴッホの絵を無事に裏社会から引き上げることができるのでしょうか。

 

2020年3月──シンガーラーレン美術館襲撃

オランダのラーレンにあるシンガーラーレン美術館。コンサートホールと美術館を兼ねるこのミュージアムも、新型コロナウィルスの影響で休館を余儀なくされた。

シンガーラーレンにはオランダの芸術家の絵や彫刻が並ぶ。例えはアントン・モーヴ、ファン・デル・レック。いずれもオランダで生まれ、オランダで没した芸術家である。とはいえ、彼らの名前は美術愛好家でなければ知らない人が多いかもしれない。

その点、事件当時は少し事情が違っていた。誰もが知る巨匠、フィンセント・ファン・ゴッホの絵が特別に展示されていたのだ。

絵は『春のヌエネンの牧師館の庭』。ゴッホが画家人生の初期に住んでいた、ヌエネンの牧師館の庭園を描いたシリーズの1つだった。これはフローニンゲン美術館が所蔵する絵で、たまたまシンガーラーレンに貸し出されていたのだった。

犯人はこの好機を逃さなかったのだろう。午前3時15分ごろ、スレッジハンマーで強化ガラスを破って館内に侵入、ゴッホの絵を持ち去り、バイクで闇に消えていった。監視カメラが一部始終を記録したが、残念なことに抑止にはならなかった。犯行現場付近には不審な白いワゴン車も目撃されており、共犯者の存在も疑われた。

警察のスポークスマンは「彼は故意にゴッホを狙ったのだろう」と述べている。

こうして日本円にして約1億2000万円~7億1000万円の価値があると推定される絵は、犯罪者の野望が渦巻く闇社会に潜ってしまった。

 

2020年6月──生存の証明

美術犯罪において被害者が最も欲するものの1つが、犯人からのコンタクトである。犯行は怨恨によるものなのか?身代金目的なのか?それとも政治的メッセージに基づくものか?すべてがこの犯罪においてはあり得ることだ。

事件から3か月後、ある写真が出回った。それは盗まれたゴッホの「生存証明」となる写真だった。

 

入手したのは、独自に調査を進めていた美術探偵アーサー・ブランド。彼は自分のテリトリーであるオランダで起きたこの事件を、自らへの侮辱とさえ感じていた。

写真には『春のヌエネンの牧師館の庭』と事件を報じるニューヨーク・タイムズ、さらに「窃盗王」オクターブ・ダーラムの自伝書が写っていた。加えて絵の裏の画像(基本的に表はコピーできても、裏には所有者しか見ることができない情報がある)も添付されていたことから、ブランドは相手が美術犯罪のプロであると判断している。

オクターブ・ダーラム(Octave Durham)は2002年にアムステルダムのファン・ゴッホ美術館から2枚のゴッホを盗んだ事件で有名になった窃盗犯である。ダーラムは数年の収監生活の後は犯罪生活から足を洗い、自らの自伝「MEESTERDIEF(窃盗王の意)」を書いた。なお今回の事件当時、ダーラムは入院していたため容疑を持たれていない。

 

ブランドによるとこの写真はならず者たちの間で出回っていたものだという。

情報は多くはない。しかしそれでも、いくつかの仮説を立てることはできた。

絵の所持者は身代金目的ではなく買い手を探しており、美術犯罪のプロの可能性が高いこと。そしてダーラムの模倣犯でもあること。おそらく盗まれたゴッホは無事であること。

 

しかしこの情報が直接に事件を解決へと導くことはなかった。

そもそも美術探偵アーサー・ブランドはあくまで私的に名画を追っているだけである。警察との連携がどの程度あったのかも不明だ。ブランドが犯人に接触するにしても、警察への情報提供はしないことを前提としている可能性は高い。

 

次に事件が動いたのは、翌年の春になってからだった。

 

2021年4月──実行犯の逮捕

事件から1年と1か月後、オランダ警察は実行犯として59歳の男を逮捕した。男の名前はニルス・M。犯行現場に残されたゴッホのフレームに残ったDNAから足がついた。ニルスは過去にも美術犯罪での逮捕歴があり、早期から警察にマークされていたのかもしれない。

2012年にはゴーダ美術館から金箔加工の聖杯を盗んだとして有罪。2009年にはエイセルスタイン美術館から6点の風景画を盗んだ疑いが持たれたが、現場のDNAのみでは証拠不十分として釈放されていた。

さらに彼はシンガーラーレンの事件から5か月後の2020年8月、フランス・ハリスの絵を盗んでいた。事件の舞台はシンガーラーレンから50㎞ほどの距離にあるリールダムの美術館。ここでも同一の型のDNAが検出され、2つの事件はリンクされた。

盗まれた絵はフランス・ハリスが1626年に描いたとされる『ビールのマグカップを持った2人の笑う少年』だった。

少々話がそれるが、この絵が盗まれたのは3回目である。繰り返しの強盗事件を受けて、美術館の警備は強化されていた。

フランス・ハリスを含む最も価値のある作品は、監視の下で見学者だけが入れる別の場所に保管されるようになっていたという。

ただしこの美術館も、事件当時はコロナウィルスの影響で休館中であった。

 

なぜこの少年の絵が犯罪者を惹きつけるのかは、後に考えることにしたい。ここでは少々興味深い(単に面白い)寓話的な語りを紹介するのみに留めようと思う。

「マグカップは古いオランダ語で貪欲を意味しているため、犯罪者たちの飽くなき欲望の標的となってしまったのだ」

 

2021年~2022年7月20日──ニルス・Mへの実刑判決

2021年には最初の判決が下った。禁固8年───この種の罪における最高刑である。ニルスはこれを不服とし、2022年に控訴審が開かれた。しかしここでも同じ判決となった。裁判所は、極めて文化的・歴史的価値の高い絵の盗難は、美術界や世間一般に大きな動揺を与えたと考えている。

さらに裁判所はニルスに870万ユーロ以上の補償金の支払いを命じた。これはハリスの絵を失ったリールダムの美術館へのものだ。シンガーラーレン美術館は賠償請求を行っていない。

なおニルスは、銃火器の所持や1万錠を超えるMDMA所持についても有罪となった。明らかに美術専門の犯罪者ではなく、多種方面に渡る犯罪を繰り返してきた「たちの悪い」犯罪者であることがわかる。

 

これで事件は解決したのだろうか?否、重大な謎が残っている。

 

2つの絵はどこに行ったのか?

 

ゴッホの所持者

ニルスは裁判でも絵の行方を語らなかった。絵の行方を知るものは他にいないのか?

1人、有力な候補がいる。前述した美術探偵アーサー・ブランドとコンタクトし、ゴッホの生存証明を送ってきた人物だ。

 

ピーター・ロイ・Kというその男は、オランダで運送業を営む傍ら、コカインギャングの中心的人物としても活動していた。2022年に39歳を迎える「働きざかり」の男は、運送業という職を活かし、オランダの麻薬国家化が進む中で有利に立ち回ることができたのかもしれない。

2017年には7人の人物と共に大規模なコカイン売買を行ったかどで有罪判決を受けている。そしてニルスへの2回目の禁固8年が決定する少し前、ピーターの裁判も開かれていた。

 

裁判のために集められた証拠には、ゴッホの絵に繋がる重要な情報が含まれていた。

ピーターの犯罪グループは「エンクロチャット」で暗号化チャットを行っていたが、司法のハッキングによってやり取りが暴かれていた。メッセージの中には、ピーターが盗まれたゴッホの絵を所有しており、自分が逮捕されたときの司法取引のカードとしてゴッホの絵を保管しておくつもりがある文面があったという。

裁判で絵についてどのようなやりとりがあったのかは明らかではない。ただ、ピーターが吐いた不敵な台詞はわかっている。

「それは俺の自由だ」

「6年経ったら、脅すことにする」

 

盗まれた名画は今もリスクに晒されたままだ。

 

 

 

あとがき

 

ゴッホの『春のヌエネンの牧師館の庭』はピーター・ロイ・Kの手にある可能性が高いというのが最新の情報です。とはいえ見通しが明るいわけではないでしょう。

美術探偵アーサー・ブランドは一度ピーターとの取引に失敗しています。理由は「ピーター本人ではなく、周囲の人物の意向によって」とされており、その言葉通りなら問題はより複雑で奪還は遠のくことになります。

ここから先の出来事は、オランダ当局がどれだけ苛烈にコカインギャング網を追求できるかに左右されるのではないでしょうか。

 

おフランス・ハリスの『ビールのマグカップを持った2人の笑う少年』については、まったく情報がありません。ニルスが盗んだ後の経緯は一切不明です。

この絵は度重なる盗難によって価値が高騰しており、仮に取り戻せても美術犯罪者の格好のターゲットになり続けるものと思います。

美術犯罪は泥棒のステータスになります。より高価で有名で、厳重に警備されたアイテムを盗んだ者が偉いのです。

盗まれた経歴のある絵は、「俺ならもっとうまくやれる」という泥棒たちのプライドをかけた獲物にされやすいのです。

現状、ハリスの絵を盗んだ泥棒の頂点に立つのがニルス・Mということになるでしょう。

 

余談ではありますが、ニルス・Mとピーター・ロイ・Kという名前の表記に疑問を持った人もいらっしゃるかもしれません。これはオランダが実名報道に対して慎重な姿勢をとっており、基本的に犯罪者の名前の一部をイニシャルとする習慣からきています。

 

参考文献
本来なら利便性を考えて章ごとに分けるべきなのですが、本記事の大部分の情報は数か月前にまとめたものでどのページを引用したのか混乱しています。見せる気のない羅列になってしまっていることをご容赦ください。

https://news.artnet.com/art-world/van-gogh-thief-used-sledgehammer-1843020

https://opsporingverzocht.avrotros.nl/zaken/item/van-gogh-schilderij-nog-spoorloos-beelden-van-kunstdief-openbaar/

https://news.artnet.com/art-world/how-thieves-profit-from-heists-1903376

https://news.artnet.com/art-world/van-gogh-hostage-photo-1888189

https://www.nytimes.com/2020/05/27/arts/design/van-gogh-stolen.html

https://www.nytimes.com/2021/09/24/arts/design/van-gogh-frans-hals-theft-conviction.html

https://www.newser.com/story/311343/prosecutors-say-bits-of-dna-point-to-thief-in-daring-heists.html

https://www.insideedition.com/dutch-thief-accused-of-stealing-art-pieces-by-vincent-van-gogh-and-fran-hals-70049

https://www.ad.nl/amersfoort/amersfoortse-transporteur-volgens-om-spil-in-bende-in-cocaine-witwassen-dure-bolides-en-gestolen-van-gogh~a7cc5981/?referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com%2F

https://www.nhnieuws.nl/nieuws/291491/verdachte-larense-van-gogh-roof-voor-de-rechter-dit-weten-we-over-de-zaak

https://www.rtvnoord.nl/nieuws/789888/drugscrimineel-kocht-gestolen-schilderij-van-gogh-voor-strafvermindering

https://www.trouw.nl/cultuur-media/na-uitspraak-in-de-zaak-van-kunstrover-nils-m-rest-de-vraag-waar-zijn-die-schilderijen-toch-gebleven~b9e181f1/?referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com%2F

https://www.huffingtonpost.jp/entry/van-gogh_jp_5e829d46c5b603fbdf4827ca

https://nltimes.nl/2022/07/20/8-years-prison-theft-van-gogh-hals-paintings-worth-millions

 

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